2010年8月29日

四塚山の四ツ塚伝説

四塚伝説

 白山の四塚山にまつわる四ツ塚伝説のあらすじは次のようなものだ。

 昔尾口村の尾添集落にたいそう猫好きの娘がいた。娘は猫のとってきた魚を猫とともに一つの皿で食べ、猫とともに山野を跳び回り、老女になっても若者のように元気だった。

 ある日大蛇が現れて老女を襲ったが、三匹の猫が勇ましく飛びかかりついにはひるんでいた老女もカマで大蛇を殺した。その肉を食べた猫はその後狼と戦うほど荒くなった。老女もいつの間にか猫そっくりの顔になり、手足にも毛が生えた。

 彼女は家を離れて山の洞穴に住むようになったが、しまいには神通力を得て、雲を起こし、雨を呼び、空を飛べるまでになった。村に葬式があると必ず雨を降らせ、黒雲をおこらせて棺桶を奪った。あまりの悪行に困り果てた村人の頼みで越知山にいた浄定行者が四匹の猫を山から追い出し、二度と暴れないように北竜ヶ馬場の四塚に封じ込めた。

両夜行1泊2日で四塚山へ

8月28日 急行能登で早朝の金沢駅下車。魚津付近からは懐かしい毛勝三山がよく見えた。夜行ではいつも通りあまり眠れず、予想される猛暑への不安も。二日間の好天は保証されており、金沢駅前発のすでに別当谷行きのバスは満員だった。市ノ瀬で降りたのは自分だけだった。ビジターセンターで登山カードに記入する。

 車で来た人は、ここからバスに乗り換えていく。チブリ尾根への道はどこか、少しウロウロして確認する。単独行者が進む方向を見て後を追う。砂防工事用の道が新設されているので地図を見ても初めてだととまどう。

 尾根に取り付いて早くも汗がしたたる。すでに9時をすぎ、ブナ林の中でも蒸し暑い。重さがこたえ、最初の水場で2.5Lの水を少し捨てる。歩き始めて2時間、太腿に違和感を覚える。正午ごろ、足がつり始めた。森林限界を抜け、お花畑が出てくる。修験者姿の人が下ってきた。背中にはホラ貝をくくりつけていた。まだこんな人がいるのだなと思った。

 チブリ尾根避難小屋にヨレヨレで到着。別山がはるか遠くに感じた。下山する人と言葉を交わす。今日、別当出合からここまで来たという。南竜から3時間だというから健脚だ。地元では相当登り込んでいる人だろうと感じた。明日下る予定の釈迦新道を眺めながら、あそこは長いよと言われて、「明日下る」とは言えなかった。つった足の痛みは相当ひどくなっていた。

御舎利山から別山

 御舎利山にようやく上がり、主稜線を南竜のキャンプ場まで辿っていくことを考えると、別山往復は断念せざるを得なかった。今のペースでは日没前に南竜到着ができるか微妙になっていたからだ。稜線右側の谷が切れ落ちた大屏風の尾根を縦走していく。疲れてはいたが、新鮮な眺望がうれしい。行く手には御前峰がどっしりと高い。天池を過ぎ、2256m峰からは大下りの油坂にかかる。足は相当まいっていて、一歩一歩がつらい。

2256m峰から御前峰と南竜ガ馬場

 沢を渡り最後の登り返しでようやくキャンプ場に着いた。18時だった。受付をすませ、一番南側のキャンプ地にゴアライトを張る。20〜30張りの先客がいた。キャビンを借りているグループもいる。足の痛みから、この時点では明日は御前峰に登って別当谷出合へ最短で下山しようと考えていた。

 夜は冷え込んで、あまり眠れず。夜、テント外へ出た高校生パーティーが息が白いと騒いでいた。星の輝きもすごかったようだ。

8月29日 5時ごろ起床し、ゆっくりとコーヒーを飲む。朝食を済ませると、やっぱり四塚山には行きたいと思う。足の様子をみながら登ってみようと決める。そのかわり、御前峰はカットして最短距離で四塚山を目指す。

 6時25分出発。南竜山荘の脇から室堂へ向けトンビ岩コースをとる。足は痛みが残っているが何とか大丈夫そうだ。室堂平の広さは予想以上。昨日辿ってきた大屏風の尾根から別山の稜線が素晴らしい。

 御前峰へ向け人が鈴なりに登っているのでカットしてよかったと思う。いずれまた室堂をベースにのんびり来たらいい。大汝峰への最短コースもゆるやかな登りで高山植物も多く、またそれほど暑さを感じないので足への負担は少ない。

 いったん下りにかかると雪渓の残る沼が見える。白山に来ていることを実感できる眺めだ。大汝峰からの展望も素晴らしいはずだが、今回は西側の巻き道を行く。左手前方には七倉山や四塚山が手招きしているようで気が急く。

 大汝峰からの道と合流し、御手水鉢に下っていく。右側の地獄谷は壮絶な崩壊を見せ、遠く北アルプス槍・穂連峰が連なる。御手水鉢には本当に水がたまっていて不思議だ。いよいよ北竜ガ馬場への登りだが、七倉山を巻いていくような道なのであっさりと到着した。

七倉山と奥に四塚岳
地獄谷の崩壊
水の涸れない御手水鉢と七倉山

 そして、ついに四塚山と四ッ塚が目に入ってきた。ザックをデポし、カメラのみ持って四ッ塚と対面。ちょうど10時だ。細長い山頂部の東側が平で、四つの塚が庭園のなかに配置されたように並んでいる。保護のためか回りをロープで囲んであった。単独行者が北側のベンチで休んでいた。釈迦新道の長い下山を残しており、写真を撮って七倉の辻まで戻る。

七倉の辻から四塚山
四つの塚で最大のもの
四ッ塚と北アルプス遠望

釈迦新道の入り口付近から四塚山

 下山路から見る四塚山は実に大きい立派な山容であった。白山釈迦岳を過ぎる頃には、酷暑がこたえ、足が動かなくなってきた。この尾根からはボリウムある白山の連なりを終始見ながらの下りだ。長い下りはやがてブナ林となり、沢音が近づく。林道に出てからさらに1時間半がんばって市ノ瀬に到着。16時20分。最終バスまで小一時間あるので白山温泉につかることができた。

釈迦新道から四塚山
白山釈迦岳

 再び急行能登で翌朝6時前に大宮着。急いで洗濯し、シャワーを浴びてから出社した。厳しくも充実した両夜行一泊二日の北陸行だった。
 

2010年8月21日

「妖怪・化け猫展」(平木浮世絵美術館)、豪徳寺ほか

「納涼 妖怪・化け猫」展へ

 猛暑続きのなか平木浮世絵美術館(江東区豊洲)で「納涼 妖怪・化け猫」展を観賞する(500円)。美術館は、ららぽーと豊洲の1Fにあるのだが、とてつもなくでかいショッピングセンターだ。展示されていた化け猫関係の作品としては歌舞伎の「岡崎の猫」に題材をとったものがほとんど。見たことがあるものが多く、あまり新鮮味はなかった。主な出品作は以下の通り(化け猫関連)。


歌川国芳 「五拾三次之内 岡崎の場」 天保6年(1835)
歌川国芳 「見立東海道五拾三次 岡部 猫石の由来」 嘉永期(1848−54)
同「昔ばなしの戯 猫又年を遍古寺に怪をなす圖」 弘化4年(1847)頃
歌川国貞(豊国Ⅲ) 「岡崎八ツ橋村の妖怪 玉嶋逸當 猫石の変化」 嘉永期(1848−54)
歌川国周 「東海道五十三次 岡崎 尾上梅幸の猫石の怪」 明治4年(1871)
楊州周延 「二嶌実ハ両尾の古猫」 明治20年(1887)
 

 化け猫以外にも猫の登場する浮世絵をみたかったが、「にゃんとも猫だらけ」という企画展が2006年に開催されていた。カタログを売っていたので購入する(1500円)。

白金の自然教育園で涼む

 妖怪浮世絵では納涼にならず、以前から行きたかった国立科学博物館附属自然教育園(目黒区白金台)に転進。正門は東京都庭園美術館の隣で入園料は300円だ。広大な白金台地に豊かな自然が残る都会のオアシスである。落葉樹・常緑樹に広く覆われ、池や小川もある。「白金長者」という言い伝えを残す豪族の土累も残っている。大きな樹木に囲まれた園内にいると、東京のど真ん中にいることを忘れさせてくれる。ただ隣接して走る高速道の騒音が少し気になった。

招き猫のルーツの一つ・豪徳寺へ

 自然教育園散策は十分に満足したが、やはり猫関連史跡に行きたくなった。日が長いのでもう一がんばりすることにした。渋谷から井の頭線経由で小田急線豪徳寺へ向かう。豪徳寺駅を降りると大きな招き猫の石像がある。高校生が群がっていてシャッターチャンスがない。とにかく豪徳寺へ急ぐ。

 山門をくぐると参道左手に招福観音堂があり、手前右に猫絵馬、左奥に招き猫の奉納所がある。また、招き猫のルーツとなった伝説で彦根藩二代目藩主・井伊直孝を雷雨から救った猫(たま)の墓もある。夕刻だったので蚊がたくさんいて油断するとすぐ刺される。タンクトップにホットパンツ姿の外国人女性が招き猫や絵馬の写真を熱心に撮っているが、群がる蚊に対して全然平気なのが不思議だった。招福殿で招福猫児の一番小さい3号を求めてから井伊家の墓所にも行ってみる。直孝の墓は正面で、桜田門で暗殺された直弼は左手奥に眠っている。

招福観音堂入り口の招福門
招福観音堂に飾られた招福猫児や御札
招き猫奉納所の左に「たまの墓」 

 豪徳寺商店街の招き猫はほとんどが豪徳寺で売られている猫だった。なお、自治体ゆるキャラとして絶大な人気がある滋賀県彦根市のひこにゃんは「彦根の、にゃんこ」を略した愛称だが、彦根城築城400年記念イベントのイメージキャラとして平成19年(2007)に生まれた。なぜ猫なのかというと、豪徳寺の招き猫伝説にあやかっているからである。ひこにゃん公式サイトのプロフィールによると「彦根藩二代目藩主である井伊直孝公をお寺の門前で手招きして雷雨から救ったと伝えられる“招き猫”と、井伊軍団のシンボルとも言える赤備え(戦国時代の軍団編成の一種で、あらゆる武具を朱塗りにした部隊編成のこと)の兜(かぶと)を合体させて生まれたきゃらくたー。」と説明されている。


商店街にも豪徳寺の招福猫児
ほとんどが豪徳寺猫

招福猫児の由来(招福猫児の説明書)
東京都世田谷区豪徳寺二丁目の豪徳寺は、幕末の大老 井伊掃部頭直弼公の墓所として世に名高く、寺域広く、老樹爵蒼として堂宇荘厳を極め賓者日に多く、誠に東京西郊の名刹なり。
されど昔、時は至って貧寺にして二三の雲水修行して、漸く暮しを立つる計りなりき。時の和尚、殊に猫を愛しよく飼いならし自分の食を割て猫に与え吾子のように愛育せしが、或日、和尚猫に向かい
「汝、我が愛育の恩を知らば 何か果報を招来せよ」 と言い聞かせたるが、其の後幾月日が過ぎし、夏の日の昼下がり、俄かに門の辺り騒がしければ、和尚何事ならんとて出てみれば、鷹狩の帰りと思しき武士五六騎門前に馬乗り捨てて入り来り、和尚に向かい謂えるよう「我等、今当寺の前を通行せんとするに、門前に猫一匹うずくまりて居て我等を見て手を上げ、頻りに招く様のあまりに不審ければ訪ね入るなり、暫く休息致させよ」とありければ、和尚いそぎ奥へ招じ渋茶など差出しける内、天 忽ち曇り夕立降り出し雷鳴り加わりしが、和尚は心静かに三世因果の説法したりしかば武士は大喜びいよいよ帰依の念発起しけむ、やがて「我こそは 江州彦根の城主 井伊掃部頭直孝なり 猫に招き入れられ雨をしのぎ貴僧の法談に預かること是れ偏へに仏の因果ならん 以来更に心安く頼み参らす」とて立帰られけるが、是れぞ豪徳寺が吉運を開く初めにして、やがて井伊家御菩提所となり、田畑多く寄進せられ一大加藍となりしも
全く猫の恩に報い、福を招き寄篤の霊験によるものにして、此寺一に猫寺とも呼ぶに至れり。
和尚後にこの猫の墓を建ていと懇に其の冥福を祈り、後世この猫の姿形をつくり招福猫児と称へて崇め祀れば吉運立ち所に来り家内安全、商売繁盛、心願成就すとて其の霊験を祈念する事は世に知らぬ人はなかりけり。
                                      曹洞宗 大谿山 豪徳寺