2010年6月27日

北上山地・笠通山と猫山

笠通山のキャシャ

 『遠野物語拾遺 113』によると、
 「綾織村から宮守村に越える路に小峠という処がある。その傍の笠の通という山にキャシャというものがいて、死人を掘り起こしてはどこかへ運んで行って喰うと伝えている。また、葬式の際に棺を襲うともいい、その記事が遠野古事記にも出ている。その恠物であろう。笠の通の付近で怪しい女の出て歩くのを見た人が、幾人もある。その女は前帯に赤い巾着を結び下げているということである。宮守村の某という老人、若い時にこの女と行き逢ったことがある。かねてから聞いていたように、巾着をつけた女であったから、生け捕って手柄にしようと思い、組打ちをして揉み合っているうちに手足が痺れて出して動かなくなり、ついに取り逃がしてしまったそうな。」
 とある。

 キャシャとは葬式の際に棺を襲う妖怪で、猫が化けたものと伝えられている。棺の上に刃物を置く風習は、この猫の化け物から死体を守るためだといわれた。会津の志津倉山に棲んだというカシャも、同じく猫の化け物である。同類の妖怪「火車」の話は西日本に多いとされる。


 登山の対象としての笠通山(かさのかようやま)は余り魅力がないのか、ガイドブックにもほとんど紹介されていない。わずかに北上山地の山々をくまなく踏査した記録である『かぬか平の山々』(日本山岳会岩手支部編 現代旅行研究所 1988年発行)に紹介されているのみである。869mという標高のわりに根の張った山で、登ってみなければ面白いかどうかは判断できない。地形図では南面に林道が入り込んでいるので植林の山だろうということは想像できる。

奥深さを背中で感じる笠通山

 6月26日 釜石線宮守駅からタクシーに乗る。今年は熊が二度ばかり出たとのことだ(いずれも綾織地区)。笠通林道は入ったことがないというので、柏木長根から笠通林道を少し入ったところで下車。あまり奥まで入ると現在地が分からなくなる恐れがある。水源涵養林で手入れの行き届いた林相である。しっかりした歩きやすい林道で「県有林事業看板」のある分岐で左の林道へ。もうひとつの分岐を左に入ると左へ左へとゆるく登っていく。登山口へ向かう林道だと確信する。やがて草に覆われてやや不安になるが、轍はしっかりしている。右に曲がってさらに左に曲がると林道終点で登山口の標識がある。

笠通山登山口(林道終点)
 左上に上がっていく登山道は少し上まで工事用足場の鉄パイプで手すりが作られている。あまり人は入っていない様子。ピンクテープが目印だ。10分も登るとピーク直下で錆びた剣を見る。三つのピークがあるということだが、最初のピークから遠野盆地が望める。はるかにかすんでいるのは六角牛山だろう。草をかきわけていくと中央のピークにも剣がある。三つめのピークに「三笠山」の石碑と「笠通山」のプレートがあった。

笠通山から遠野盆地と六角牛山遠望
笠通山中央ピークの古剣
笠通山山頂の三笠山碑
笠通山の山頂
 山頂直下まで車で入れることが登山の対象として面白味がなく、逆に展望のほとんどない林道を下から歩くのもイヤ。このあたりがこの山が敬遠される理由なのだろう。いずれにしても初見で頂上に立つのは読図力が不可欠である。2万5千分図では林道の 林道を歩いているとぞくぞくとするような奥深さを感じる。遠野物語の山ならではの感覚だ。

 県有林事業看板の分岐まで下り、左の林道に入るとすぐ山側に造林小屋と山の神の石碑があった。右には池があり、あまり使われていないような道も下っている。轍があり気になったが、しっかりした林道を進めば南側の和山に下れるだろうとタカをくくる。しかし、行けども行けども山腹を縫っていくばかり。ついに車道に抜けたと思ったら、向こう側に千葉家住宅が見えるではないか。綾織の滝沢集落に出たということは、笠通林道を東西に横断したことになる。笠通山の林道に関しては、2万5千図の情報は古いままである。しかし、このハプニングが思わぬ幸運をもたらしてくれる。

 川を渡って千葉家住宅前に出、遠野街道を南下していくと遠野の名勝のひとつ「続石」の入り口である。10年ほど前に遠野を初めて訪れた際、観光バスで千葉家住宅やカッパ淵などとともに見て回ったのでパスする。すると小ぶりな続石と綾織地区の周辺案内石があったので、何気なく目をやったら「猫石」と彫られているではないか。その場所はついさきほど下ってきた笠通林道付近だ。林道入り口から少し入ったあたりか。場所が特定できないでいた猫石とニアミス?していたことになる。これは思わぬ収穫だ。戻って探すのは次の機会に回すことにして、岩手二日町の駅に到着。林道歩きで足が痛くなった。15時15分。

 釜石線をいったん宮守駅まで戻る。今夜のねぐらは道の駅みやもりで、建物脇の気持ちよい草地にテントを張る。夕刻になると釜石線のめがね橋がライトアップされて幻想的であった。夜は少し雨が降った。

幻想的なめがね橋のライトアップ
猫山が入山禁止のわけ

 6月27日 曇天だが何とかもちそうだ。猫山に登るためにバスで大迫BTへ行き、タクシーで合石(あせいし)へ。猫山はかなり上まで林道が延びているのだが、林道入り口の「入山禁止」看板がチラリと見えたので下車する。8時50分。歩き出してすぐ、草刈りしている人に会釈する。上部は確か牧草地になっているはずだが、林道奥まで車で自由に入って山菜・キノコを採取されては地元生活者としては困るのだろう。

 林道は非常に歩きやすい。県有林となっていて一般車はあまり入れないようだ。地図上にある硯石とはどのようなものなのか、下調べしてこなかったが、見てビックリ。ガマが大口をあけたような大岩だった。10人くらいは庇のような岩の下に入れそうだ。ここまで1時間10分だった。

硯石
 その先の道は山腹を走っているようなので、間近に迫ってきた尾根に上がってみる。尾根上にもかすかに轍があり、それに従う。尾根上には防火林となっている。広い尾根にわずかな踏み跡を辿って草をかきわけていく。ガスが濃いと難儀するだろう。右下に作業小屋があり、草地を進むと開墾地の畑が現れる。硯石からの道はここまで入っている。猫山の山頂部はその先、なだらかな林に包まれていた。カモシカの害から防ぐためか畑はネットで囲っている。何かの野菜の種を植えたばかりのようだ。「入山禁止」とされる理由がこれでわかった。一般車にここまで入られたら畑仕事に差し支える。

猫山の頂上方面
 この先は道はないだろうと真っ直ぐにヤブに突入。猫の背中のような石が出て、その左に道があった。開墾地の左寄りからつけられているようだ。歩きやすく、やがて猫山頂上だ。東側が切り開かれており、早池峰山の連山が正面から見える。頂上には盛岡の山の会によるプレートがあった。とにかく「猫山」に登ることができてうれしい。1000mに満たないが非常にボリュームのある山であることを実感した。

猫山頂上のプレート
猫山から早池峰山
 下山は合石には戻らず、北面の鳥谷に下りることにする。途中、硯石の手前で動物の気配に目を遣ると橙色のテンだった。鳥谷へ林道に入ると、こちらは手入れされておらず陰気で荒れ放題だ。道が沢状となって水が流れ、倒木が道をふさぎ、クモの巣がかかって不快この上ない。当然、車は上がってこれそうもない。

 地形図に水呑場と記載されている付近は、小沢がいくつか横切っていて喉をうるおせる。鳥谷集落側の林道入り口に13時着。ここにも「入山禁止、山菜採取禁止」の立て札がある。鍋屋敷のバス停までの途中、カモシカが悠然と道を横切っていった。15分ほどでバス停に着くと、地元のお爺さんの厚意で大迫BTまで車にのせてもらうことになった。いやはや親切な方だ。

 行きのタクシーで聞いた今年度で閉館の大迫山岳博物館や宮沢賢治記念館には時間切れで次の機会にまわす。次に猫山に登るときは、山スキーか。もちろん、きちんと地主さんに了解をとってだが。

 

2010年6月6日

奥会津・志津倉山の猫啼岩

 志津倉山のカシャ猫伝説

 会津地方は化け猫に関する伝説が多い。志津倉山(1234m)のカシャ猫伝説も、その代表的なものの一つである。

 『その昔、子供のないお爺さんとお婆さんが一匹の猫を飼って可愛がっていました。ある年のお盆にお爺さんが泊まり掛けで芝居を見に行き、お婆さんはその晩、なかなか眠れず、「おらも芝居がみてぃなァー」といって猫の頭を撫でると、猫は隣のへやに行き、「芝居がそんなに見たければ、おらがこれから、その芝居をお見せ申すべ」というと、障子戸に芝居の影が色どりも美しく映し出し、様々な芝居を明け方近くまで見せてくれたのでした。そして「今夜のことは絶対に喋っちゃいけないぜ」というのです。しかし、次の晩お爺さんが芝居の面白かったことを寝物語に語って聞かせると、お婆さんもつい話に乗ったはずみで昨夜の猫の芝居のことを話してしまいました。これを聞いたお爺さんは、「この先どんな化猫にならないとも限らない。末恐ろしいことじゃ」そういうと、翌日さっそく猫をつかまえると箱のなかに入れて、前の川に流してしまいました。すると、不思議なことに、その箱は川下には流れていかず、逆に川上へ流されていきました。そして川上の切り立った岩山に登り、そのまま猫は大辺山(現在の志津倉山)に棲みついてしまいました。
 こうしたことがあってから、この岩山には猫啼岩と呼ばれるようになり、猫は千年の齢を重ねた怪猫(カシャ猫)となって、人もとって食うと伝えられています。』(『みちのく120山』福島キヤノン山の会、歴史春秋出版、1991)
 伝説には次のようなバリエーションもある。
 『昔、志津倉山にばけ猫が住み、大雨、日照り、病をはやらせ、人の亡きがらを食いその命をわがものにして人々を困らせていた。
 これを聞いた弘法大師は志津倉のコシアブラの木で退治し“猫の魔力で天の災いから人を救い病を治す志津倉山の主になれ”とさとされた。それ以来ばけ猫は志津倉山の主になった』(『岳人』555号「志津倉山」、東京新聞出版局、1993)

 なお、大沢右岸にあるスラブの「猫啼岩」は、志津倉山登山道からも望まれる。また、魔除けとしてコシアブラの木を使った「かしゃ猫」はユーモラスな猫の木彫りこけしだ。


 平成22年の山開きに参加

 6月6日(日)の平成22年志津倉山山開きに出かけた。ふだんは騒々しい山を避けているのに山開きという行事になぜ参加したのか。一つは会津宮下駅前から無料のシャトルバスが運行されるというメリットがあること、また地元参加者が多いので伝説やカシャ猫の情報がより得られやすいだろうという狙いがあった。

 前日は駅員の許可を得て会津宮下駅前でテント泊。登山口は駐車スペースが少ないため、車で来る人も多くはバスに乗り換える。参加者は2台のバスに分乗し、7時35分出発。登山口までは30分で到着した。すでに車で来た人たちでいっぱいだった。受付テントで手続き後、祈願祭を行って出発する。8時25分発。

 この上ない好天に恵まれたが、少し蒸し暑い。二子岩コースは残雪があるので回避してほしいということで、大沢コースへ。二子岩コース上部から猫啼岩を正面から見たかったのに残念。

 二子岩コース分岐付近からは、おなじみの雨乞岩のスラブが一望できる。確かに残雪が今年は多いようだ。大沢コースの途中、左手の林間に見えるスラブは猫啼岩の下部ではなかろうかと直感する。5分も登れば基部にたどり着けそうで、猫啼岩を見上げてみたいものだ。しかし、ここでも自粛。

残雪で覆われた雨乞岩のスラブ

 大沢を渡る最後の水場から急登となるので一本。ここまで約50分。シャクナゲ坂の鎖場は大渋滞となってなかなか進まない。これだから、やれやれ…。このまま猫啼岩を見ることもなく頂上へ行ってしまうのかと不安もよぎる。が、一本松の直下から振り返ると猫啼岩の全貌が見渡せた。これまで見た猫啼岩の写真は、二子岩コースから撮影された正面からのものばかりだった。後ろを歩く地元参加のかた2人に、「あれ、猫啼岩ですよね」と一応確かめると、「いや、地元ですが全然わかりません」との答え。そんなものか。よりスケールの大きい屏風岩の方が有名らしい。

シャクナゲ坂から猫啼岩

 一本松を過ぎて急登から解放され、ブナ林の緩やかな尾根となって志津倉山頂上へ。10時40分着。すでに先着7、80人くらいはいるだろうか。三岩岳方面の豊富な残雪が白くまばゆい。ランチタイムも一段落すると、恒例の抽選会となった。何年か前にはカシャ猫をプリントしたTシャツが景品となって、その写真を見たことがあった。今年は、と期待したが出品されなかった。

志津倉山から三岩岳・窓明山方面

 11時25分、下山にかかる。経由する細ヒドコースは見事なブナ林に覆われている。急坂を注意して下り、糸滝を過ぎると右側が切れた階段を下る。安全のため係の人が見守っている。ブナ平では巨木のブナが多くて素晴らしい。この季節は瑞々しい。

細ヒドコースのブナ林

 12時27分、登山口に戻り、三島町観光協会のテントで山菜汁をいただく。観光協会の方に聞けば、木彫りのカシャ猫は現在販売されていないという。制作者(間方集落の長郷さん)が高齢となり作っていないし、オリジナル作品なので後継者もいないようだ。カシャ猫には御守りをいれてあり、化け猫という性格上、観光みやげの目玉にはできないのだろうか。ウーン、残念無念。15年以上も前から手に入れたかったのに。やはり、「猫」の逃げ足は早いのだ。

 帰りのシャトルバスは14時発。参加者に配られた温泉割引券で、駅から徒歩10分の宮下温泉「ふるさと荘」で汗を流す(420円→270円)。もはや幻となったカシャ猫探しにまた来なくてはならないという重い課題が加わった。